Friday, 28 September 2012

村上春树先生来稿 对领土的热情如同「劣质酒的醉态」

From 無垢識・空境界

随着围绕钓鱼岛的争端越来越激烈,中国许多书店开始撤下日本作家的书籍,作为日本作家之一,我当然也深感震惊。

目前还不知道这是政府主导的有组织的排斥还是书店自主的回收。所以暂时我还不想对此表示什么意见。

最近二十来年,东亚地区最喜人的一个成就,就是渐渐形成了固有的“文化圈”。

能够形成这种状况,最大的原因应该是中、韩、台经济的飞速发展。

各国经济系统更强劲地稳定下来,才有可能进行文化的等价交换,更多文化成果(知识产权)才能越过国境你来我往。

规定的通用的规则之后,曾经在这一地区猖獗的盗版行为渐渐消失(或者大量减少),预付款和印税较多的时候也会正常支付了。

根据我自己的经验来总结的话,就是“能走到今天,这条路真的很漫长啊”。以前的状况就是那么糟糕的。

具体有多糟糕,我在这里就不列举事实了(因为我不想再让问题纠缠起来),最近的环境有了明显的改善,“东亚文化圈”正在稳步成长为丰富安定的市场。虽然还有几个个别的问题残留,目前这个市场里的音乐、文学、电影、电视节目都能够基本自由地等价交换,被更多的人获取、欣赏。这真的是个很棒的成果。

例如韩剧火爆起来之后,日本人对韩国文化更加亲近了,学习韩语的人也在急剧增加。

大概算是一种交换行为,我在美国大学期间,有许多韩国和中国留学生到办公室来探望我。他们热心地阅读了我的书,热心得吓人,我们有许许多多事情可以谈论。

为了制造这种正常状况,长年以来无数人倾注了心血。作为当事人之一,我虽然力有不逮,也一直在努力着,只要这种稳定的交流持续下去,就算一时还没有头绪,我国与东亚各国之间存在的一些未决问题也应该总有一天能够得到解决。

文化交换的一个重要目的是形成“虽然我们语言不同,却同为拥有同样感情和感动的人类”的认识,也就是跨越国境进行灵魂的交流。

作为一个亚洲作家和日本人,我很担心这一次的钓鱼岛问题和竹岛问题会对这些汗水的结晶造成巨大的破坏。

既然有国界的存在,领土问题就是无法回避的问题,这实在令人遗憾(说是遗憾也不为过吧)。可是这是实际工作就能解决的问题,也是必须通过实际工作解决的问题。领土问题一旦越过了实际工作的问题,进入国民感情的领域,往往就会出现没有出口的危险状况。就像喝了劣质酒耍酒疯一样。劣质酒不过几杯就能把人灌醉,头脑充血,嗓门变大,动作粗暴起来。理论越来越简单,开始自说自话。不过喧闹过后到了早上,就只剩下头痛欲裂而已。

对于尽情播撒劣质酒,煽动骚动的政治家和评论家,我们必须要格外注意。

上世纪30年代的阿道夫·希特勒能够稳定政权基础,也是因为他把施政的根本放在收回一战丧失的领土上。

后来的结果我们都知道了。这一次的钓鱼岛问题发展到如此严重的地步,原因也需要双方之后冷静地确认了。政治家和评论家们只要甩出威风凛凛的话语就能把人们煽动起来,然而实际受伤的却是身在现场的每一个人。

我在小说《奇鸟行状录》中提到了1939年满洲国与蒙古之间的诺门罕战役。

那一战很短暂,但正是国界纷争引起的激战。日军和蒙苏联军激战之后,双方共有近两万士兵丧生。

我写过小说之后去了当地,伫立在仍然撒满弹壳和遗物的茫茫荒野上,感觉到猛烈的无力感。“为什么人们要为了这么一片荒凉空无一物的土地毫无意义地厮杀呢?”

如我开始所说,中国书店撤下日本作家的书籍一事,我没有表达意见的立场。这只是中国国内的问题。

作为作家会感到非常遗憾,但我无能为力。我能够明确说明的,就是千万不要采取什么报复行动。一旦如此,问题就落在了我们身上,给我们自己带来影响。

相反,如果能够表现出“无论发生什么事,我们都会对别国文化保持尊重”的冷静姿态,我们才能获得更重要的成果。

跟劣质酒的醉态恰恰相反吧。

那种醉态总会醒的。但灵魂的交流途径是不能阻塞的。为了打开交流途径,无数的人们多年以来付出了无尽的血汗。这条重要的途径今后还要维持下去,无论发生什么,都要维持下去。

——

村上春樹さん寄稿 領土巡る熱狂「安酒の酔いに似てる」

 尖閣諸島を巡る紛争が過熱化する中、中国の多くの書店から日本人の著者の書籍が姿を消したという報道に接して、一人の日本人著者としてもちろん少なからぬショックを感じている。
それが政府主導による組織的排斥なのか、あるいは書店サイドでの自主的な引き揚げなのか、詳細はまだわからない。だからその是非について意見を述べることは、今の段階では差し控えたいと思う。

 この二十年ばかりの、東アジア地域における最も喜ばしい達成のひとつは、そこに固有の「文化圏」が形成されてきたことだ。
そのような状況がもたらされた大きな原因として、中国や韓国や台湾のめざましい経済的発展があげられるだろう。
各国の経済システムがより強く確立されることにより、文化の等価的交換が可能になり、多くの文化的成果(知的財産)が国境を越えて行き来するようになった。
共通のルールが定められ、かつてこの地域で猛威をふるった海賊版も徐々に姿を消し(あるいは数を大幅に減じ)、アドバンス(前渡し金)や印税も多くの場合、正当に支払われるようになった。

 僕自身の経験に基づいて言わせていただければ、「ここに来るまでの道のりは長かったなあ」ということになる。以前の状況はそれほど劣悪だった。
どれくらいひどかったか、ここでは具体的事実には触れないが(これ以上問題を紛糾させたくないから)、最近では環境は著しく改善され、
この「東アジア文化圏」は豊かな、安定したマーケットとして着実に成熟を遂げつつある。まだいくつかの個別の問題は残されているものの、
そのマーケット内では今では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手に取られ、楽しまれている。これはまことに素晴らしい成果というべきだ。

 たとえば韓国のテレビドラマがヒットしたことで、日本人は韓国の文化に対して以前よりずっと親しみを抱くようになったし、韓国語を学習する人の数も急激に増えた。

それと交換的にというか、たとえば僕がアメリカの大学にいるときには、多くの韓国人・中国人留学生がオフィスを訪れてくれたものだ。
彼らは驚くほど熱心に僕の本を読んでくれて、我々の間には多くの語り合うべきことがあった。

 このような好ましい状況を出現させるために、長い歳月にわたり多くの人々が心血を注いできた。僕も一人の当事者として、微力ではあるがそれなりに努力を続けてきたし、
このような安定した交流が持続すれば、我々と東アジア近隣諸国との間に存在するいくつかの懸案も、時間はかかるかもしれないが、徐々に解決に向かって行くに違いないと期待を抱いていた。
文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。

 今回の尖閣諸島問題や、あるいは竹島問題が、そのような地道な達成を大きく破壊してしまうことを、一人のアジアの作家として、また一人の日本人として、僕は恐れる。

 国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、
また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、
危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。
論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑(にぎ)やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。

 そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽(あお)るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くならなくてはならない。
一九三〇年代にアドルフ・ヒトラーが政権の基礎を固めたのも、第一次大戦によって失われた領土の回復を一貫してその政策の根幹に置いたからだった。

それがどのような結果をもたらしたか、我々は知っている。今回の尖閣諸島問題においても、状況がこのように深刻な段階まで推し進められた要因は、
両方の側で後日冷静に検証されなくてはならないだろう。政治家や論客は威勢のよい言葉を並べて人々を煽るだけですむが、実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ。

 僕は『ねじまき鳥クロニクル』という小説の中で、一九三九年に満州国とモンゴルとの間で起こった「ノモンハン戦争」を取り上げたことがある。
それは国境線の紛争がもたらした、短いけれど熾烈(しれつ)な戦争だった。日本軍とモンゴル=ソビエト軍との間に激しい戦闘が行われ、双方あわせて二万に近い数の兵士が命を失った。
僕は小説を書いたあとでその地を訪れ、薬莢(やっきょう)や遺品がいまだに散らばる茫漠(ぼうばく)たる荒野の真ん中に立ち、
「どうしてこんな何もない不毛な一片の土地を巡って、人々が意味もなく殺し合わなくてはならなかったのか?」と、激しい無力感に襲われたものだった。

 最初にも述べたように、中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。
一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、
どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。
逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。
それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう。

 安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。その道筋を作るために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲(にじ)むような努力を重ねてきたのだ。
そしてそれはこれからも、何があろうと維持し続けなくてはならない大事な道筋なのだ。

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