Wednesday, 23 December 2015

微思客 | 带着镣铐跳舞——伊朗电影漫谈

作者:惜时
微思客编者按:最早接触伊朗电影,可能是从各大榜单上,《小鞋子》、《天堂的颜色》等儿童电影被列为必看经典影片,单线条叙事,讲的都是絮絮叨叨的 孩童间的小事,却非常动人,近年来,随着《一次别离》等新片获奖,进入公众视野,呈现的又是另一个维度的情感。伊朗电影究竟是一种怎样的存在,本文对伊朗 电影概况进行简要梳理。接下来对这一话题或之前微思客“电影与城市空间”栏目感兴趣的读者欢迎来稿交流,投稿请寄 wethinker2014@163.com。
说到伊朗更多的是一种比较陌生的宗教气质,正如带着黑色面纱的伊朗女人给人的神秘感,然而伊朗电影朴实自然的叙事,以及所流露出的深厚的人文关怀和 对现实问题的注视,历来为人称道。比较熟知的像《一次别离》上映两年就拿下包括奥斯卡最佳外语片在内的四十多个奖项,完胜当年与它同时竞争的国内影片《金 陵十三钗》,它们产量很少,每年出产电影也就一两百部,能到其它国家展映的电影则更少,而中国电影的年产量动辄达近千部。
伊朗电影诞生于20世纪末,与中国差不多时候,由于受宗教、政治、文化等因素的影响,伊朗电影业一直处于曲折艰难的发展境遇。纵观浩如烟海般的世界 电影大潮,在夹缝中生长的伊朗电影,能够以小博大,饱受赞誉,这在中东边缘国家来说是极为少见的。其中,审查制度和新浪潮是了解这个国家电影面貌的两个关 键词。
无法回避的审查制度
伊朗是一个政教合一的国家,宗教对世俗生活直接干预,伊斯兰教对女性的行为有严格的规定,从穿着到举止都在审查之列,因此早期的电影里,很少看到对 女性的细腻刻画。1978年伊斯兰革命爆发后,霍梅尼接管政权,信奉“原教旨主义”伊斯兰政府,没有让国家变得更好,反而实行高压独裁统治,以更为严苛的 教义来规范社会文化。许多导演流亡海外,不少国内的电影人以“腐蚀公众”的罪名遭到清洗。在“反帝”的口号下,西方被宣传为堕落的撒旦,政治倾向和性的展 示是审查重点,很快外国电影被当局彻底驱逐。伊朗裔作家阿扎尔·纳菲西曾这样讽刺这种审查,“这世界的电影审查官重新排列组合现实的功力,足堪与骚人墨客 匹敌,因此我们既是想象中的自己,也是别人编造的想象。”
其中最有名的当数贾法·纳帕西,毕业于德黑兰电影与电视学院,师从阿巴斯,拍摄过《白气球》、《谁能带我回家》、《生命的圈圈》、《深红的金子》等 影片,镜头多聚焦伊朗的社会现实,毫不避讳地对伊朗女性地位、贫富差距等问题进行尖刻揭露。2010年12月,贾法·纳帕西因“危害国家安全罪”和做了不 利国家形象的宣传,被伊朗政府剥夺人生自由,并判处他20年内不得制作或指导任何影片,不得写剧本,不得以任何形式接受国内外媒体采访,不得离开伊朗。其 后,作品《这不是一部电影》拍摄的就是他被囚禁在家中的生活片段,一个导演以这样的方式和勇气对抗政治压迫,让人感慨。今年,他凭借其自编自导自演的影片 《出租车》获得柏林电影节金熊奖,但因身陷囹圄,无法到场。当时国际电影界众多导演和演员都为他的遭遇声援,然而在专制国家,艺术家的创作自由永远禁锢在 政治的高压下。
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(贾法·纳帕西《这不是一部电影》,2011年)
1979年,革命后的新政府很快意识到电影是一种政治宣传手段,可以利用它来发动人们对政权的支持,于是政府建立了一套电影工业,推崇反映伊斯兰宗 教和文化的宣传片。当时电影主要有三种形式,除了为政治和宗教服务的官方电影,还有比较流行的没什么艺术价值的“垃圾电影”和纯真质朴的儿童片,因为儿童 题材容易过审,不会触犯政治,伊朗电影最早在国际上广受认可的便是它们的儿童片。
从某种程度上说,伊朗电影业中的各种禁令,也为它们的电影制作者提供了一种保护,好莱坞的工业、技术并没有冲击本国电影,自觉的电影人仍致力于生产 高质量的,反映社会问题、具有民族特点的影片。许多电影人对审查的态度也非常坦然,阿巴斯曾说“限制是我们东方人生活和文化中的一部分,生活就是在限制和 自由的矛盾和对立中发展和变化的,正是有了限制,才让我们变得更有创造性,激发我们创立新的风格”。
从新浪潮至今
上世纪六七十年代,全世界都掀起“新浪潮”,涌现出一批年轻的电影导演,它们以新的美学观念与当时的电影决裂,以法国为旗手,匈牙利、捷克等东欧国 家电影运动、英国自由电影、德国新电影等纷纷受其影响,以革新的姿态探索本国电影艺术。伊朗也不例外,与法国新浪潮追求的个性解放,注重创作者的实验性表 达不同,伊朗新电影更多与意大利新现实主义旨趣相承,具有强烈的社会观照性,反映底层小人物的生活状态,表达社会不公和对体制的批判。一般来说,人们将伊 朗新浪潮以来的电影中坚人分为四代。达鲁希·梅赫朱依被称为第一代导演,他拍摄的《奶牛》被视为“新浪潮”的开山之作;阿巴斯和穆森·马克马巴夫是第二代 导演中的主将,此外巴赫拉姆·贝赛(作品《暴雨》、《我不在这儿》等)也是同时期的代表性导演;马基德·马基迪(作品《小鞋子》、《天堂的颜色》等)和前 文所提到的贾法·纳帕西则被称为第三代;如今伊朗电影界涌现出许多后起之秀,穆森·马克马巴夫的大女儿萨米拉·马克马巴夫、青年导演巴赫曼·戈巴蒂可划为 第四代。
如果考察伊朗近几十年的历史,可以看到从伊斯兰革命、共和国成立到连续不断的内战、两伊战争、政党更替,战争、动荡成为伊朗人的生活常态,社会风气 和文化环境也随着执政者的变换呈现时宽松时紧张的状态。因而伊朗电影新浪潮兴起于“伊斯兰革命”爆发前10年左右的时间,那时国王统治对电影制作的管控相 对较为开放,允许电影人对社会问题进行适度揭露。达鲁希·梅赫朱依早年留学美国,回国后执导的《奶牛》让他名声大震,影片讲述一个贫瘠的山村,全村只有一 头奶牛,不料奶牛竟神秘死亡,这让奶牛主人陷入巨大绝望,最后精神失常,幻想自己就是奶牛,做出种种怪异举动。该片获1970年威尼斯电影节的评委会大 奖。之后他还拍摄了《天真先生》、《邮差》等不错的影片,只可惜由于伊朗政治对电影业的管控,我们已很难看到他的片子。可以说,达鲁希·梅赫朱依作为新浪 潮的奠基人,引领着后来的伊朗电影人朝着根植现实,反映人民疾苦,展现民族文化的方向发展。
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(《奶牛》,1969年)
革命前电影业的短暂繁荣培养了一批重要的电影人,其中就包括世界公认的电影大师阿巴斯,阿巴斯在电影史上的地位已被人反复论述,戈达尔曾宣称“电影 始于格里菲斯,止于阿巴斯”。这里要提到对年轻电影人提供极大帮助的组织——伊朗青少年教育协会,它于60年代在王后的倡导下创办,1969年起,在阿巴 斯的组织下,成立电影分部,阿巴斯的短片处女作《面包与小巷》就由该协会扶持发行,另外,协会还出品了许多优秀的作品,像《小鞋子》、《奔跑者》、《小芭 舒》等等。应当说,阿巴斯让伊朗电影制作者受到世界性关注,他第一部让西方广泛认可的影片是1987年的儿童片《何处是我朋友的家》,讲述小学生阿穆得不 小心把同桌木汗德的作业本带回家,担心木汗德被开除,阿穆得只好独自踏上了艰苦漫长的寻找之路,最后阿穆德找到同学的家,却没找到人,只好替同学写好作 业。表现孩子天真无邪的心灵世界的儿童电影如今成为伊朗电影的标志性类型,不少导演均拍过以儿童为叙事着力点的片子,如第三代导演马基德·马基迪尤其钟爱 儿童题材。
此后《特写》、《生活在继续》、《橄榄树下的情人》、《樱桃的滋味》等影片屡获大奖,阿巴斯也成为八九十年代伊朗电影复兴的领军人物,他坚持简单、 自然的本土化故事,将普通人的生存状态用最纯粹的方式展现出来,缓缓道来,如诗一般隽永,同时也融入了强烈的哲学性思考。从早期的儿童题材到之后对生存、 寻找等生命终极意义的探寻,阿巴斯的创作历程也呈现出鲜明的层次与脉络。
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(《何处是我朋友的家》,1987年)
与阿巴斯同时期的穆森·马克马巴夫在伊朗电影界的影响不容忽视,他年轻时因参加极端宗教组织,在一次暴动行动中刺杀一名警察而被捕入狱,出狱后,全 力投身电影事业。迄今为止,他已执导了如《骑自行车的人》、《电影万岁》、《编制爱情的草原》、《无知时刻》、《魔毯》等二十多部电影。作为从政治斗士转 向文化领域的电影人,马克马巴夫作品前后风格迥异,有根据当年的刺杀行动而改编的自传性质影片《无知时刻》、《抵制》,也有讲述波斯地毯制作,富有魔幻与 浪漫色彩的《魔毯》。其中最富盛名的当属2001年的《坎大哈》,影片关注阿富汗难民生存境遇,片中女记者纳法斯冒险进入阿富汗南部城市坎大哈,因为她收 到妹妹的来信说将在下次月食来临前自杀,为了挽救妹妹,纳法斯雇佣向导深入阿富汗内部,也亲见了当地人的苦难。《坎大哈》获第54届戛纳国际电影节评审团 大奖。马克马巴夫对伊朗电影的贡献更在于他创办了“马克马巴夫电影之家”,这个以家庭成员为中心的民间电影机构,在伊朗保守的政教体制下,无疑具有开创和 实验性。马克马巴夫认为伊朗大学的电影教育重理论,不重实际操作,仅仅教导学生那些僵死的电影理论根本无法培养优秀的电影人才。据说当时,他把创办电影学 校的计划通报给伊朗文化指导部,然而得到的回复是:在伊朗,有一个像穆森·马克马巴夫这样危险的电影导演已经足够了。无奈,马克马巴夫只好在自己家开班, 学生为他的朋友和家人,包括妻子、子女,最小的是他年仅八岁的小女儿汉娜。通过他的新式教学,日后他们中的许多人都成为优秀的电影工作者,妻子和女儿都摄 制出了令人瞩目的作品,儿子则往摄影和剪辑上发展,这个电影之家在今天看来,仍堪称传奇。
第三代导演贾法·纳帕西的遭遇在前文已提及,他是阿巴斯的弟子,曾协助阿巴斯在《橄榄树下的情人》等影片制作中担任导演助理的工作。目前执导的长片 作品有7部,如果说早期的《白气球》、《谁能带我回家》还有模仿阿巴斯以孩童为对象表现伊朗贫困家庭琐碎生活的痕迹,那么在之后的几部作品里,导演则完成 了风格的转变,形成了自己的色彩。《生命的圆圈》以“轮舞”的形式,讲述伊朗女人无法摆脱的悲剧宿命;《越位》以女性不能进球场和男人一起看球赛为中心事 件,声讨伊朗社会男女权利不对等。与阿巴斯最大的不同在于,阿巴斯的电影很少有对政治相关议题的触及,而纳帕西不回避对社会矛盾的揭露,这也为他带来不 幸,成为当局的眼中钉。
1983年成立的法拉比电影基金会,鼓励新一代电影制作者对创作的热爱,它至今仍然发挥着重要的协调作用,为青年电影人提供资金帮助。1997年, 前文化部长穆罕默德·哈塔米当选为总统,他帮助电影工作者争取到相对多一些的自由,政府对电影的扶持,使伊朗电影在90年代在世界影坛大放异彩,它们丰富 的想象和真挚的感情,征服了海外观众,进一步夯实了伊朗电影的独特地位。与此同时,更多年轻导演纷纷崛起,既很好地继承前辈的文化传统,又生发出新的触 角。萨米拉·马克马巴夫,继承父亲的荣誉,十八岁便携处女作《苹果》获1998年戛纳电影节“一种关注”单元的金摄影机奖,一鸣惊人,成为该奖历史上最年 轻的获奖者,两年后,《黑板》又获戛纳评审会大奖,2003年,她的《下午五点》再次摘得相同的奖项。从纪实性影片《苹果》,质问一位父亲为何将他两个女 儿囚禁在家11年,到《下午五点》对阿富汗民族苦难的关注,萨米拉的电影具有很强的人道主义关怀,她对边缘地带现实生活的深邃思考和人们内心渴望的洞悉, 让人很难想象这些作品出自一位年轻女导演之手。巴赫曼·戈巴蒂是少数民族库尔德人,他的电影专注于描写本民族的生存故事,第一部影片《醉马时刻》就为他赢 得显赫声名,影片对库尔德地区艰苦的环境、赤贫的生活进行纪实呈现,它不直接表现战争,却展现饱受战争创伤的民族如何勇敢与命运抗争的不屈精神。另外一部 获奖无数的作品《乌龟也会飞》则更具残酷性,讲述在伊朗和土耳其边界,战乱让人们流离失所,临时难民营聚集了很多无家可归的孩子,“卫星”是这里的孩子 王,带领这些孤儿捡地雷换钱,阿格林和她的无臂哥哥吸引了“卫星”的注意,沉重的过去让阿格林多次想要自杀,她被士兵强暴生下的儿子也让她极度厌恶,最 终,“卫星”爱慕的女孩阿格林结束了幼子的生命,她自己也跳下悬崖。巴赫曼·戈巴蒂让伊朗儿童题材电影蒙上另一重色彩,他所记录的库尔德人真实的生活状 态,为观众传递出一种悲凉、震撼。
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(《乌龟也会飞》,2004年)
新浪潮之后,许多电影人已学会巧妙躲过审查的框架,新一代电影人在传承前辈们的艺术旨意的同时,在内容上的多面向拓展使伊朗电影越来越呈现多元化特 征。受限于能从网络和DVD渠道获取的区区资源,我们只能从熟知的电影作品去对伊朗电影的发展历程窥探一二,除此之外,还有很多优秀的电影人及其作品并不 为我们知晓,有些影片在伊朗本国和国际上的接受程度也不尽相同,希望这些问题在未来能找到答案。
区别于好莱坞电影的炫技手法,伊朗电影几乎没有大制作,很多获奖影片都是小成本。它们仿佛一泓清泉缓缓流过人们心底,让人静静倾听生命的美好和困 惑,他们是坚定的现实主义者,又要带着镣铐跳舞,在严苛的政治环境中寻找一丝丝突破口,以真实可感的本民族生活,展现出一种质朴的原生态的东方美,它们面 临比我们更严格的审查,却葆有较高的艺术水准,这才是伊朗电影带给我们的思考。


from 中国数字时代 http://chinadigitaltimes.net/chinese/2015/12/%e5%be%ae%e6%80%9d%e5%ae%a2-%e5%b8%a6%e7%9d%80%e9%95%a3%e9%93%90%e8%b7%b3%e8%88%9e-%e4%bc%8a%e6%9c%97%e7%94%b5%e5%bd%b1%e6%bc%ab%e8%b0%88/
何清漣
2015年12月20日
全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun
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上将・劉源(*1951年2月22日 64歳)は最近、「心に永遠にー総後方部(*軍)に別れをー」を発表しました。これは薄熙来、劉源、習近平の三人を代表とする50年代生まれの「紅二代目」の政界マラソンの終わりを告げるものでした。いかに地位に未練があったとて、習近平をトップとする体制が固まってしまっては他の「二代目」の前にはすでにもう座る場所がなかったのです。毛沢東時代から自分達こそ「革命の後継者」だと自負していた他の紅二代達は貴賓席の観客席においやられてしまったのです。
★鄧小平、陳雲が決めた「子供達を後継させる」ルール
薄熙来事件が起きたとき、私は「中国权力传承模式:血缘+党内程序 」(中国の権力継承モデルー血縁と党内出世過程)と「《2012年中国政局分析(其の一):中国「太子党」は権力にどれぐらい近いか http://ift.tt/1OorVpq



)を書いて中共の政治権力の受け渡し方式には大変特徴があることを指摘しておきました。
それはソ連のような党内の"重役会議"で職歴を参考に後継者を相談して選ぶでもなければ、北朝鮮のような金王朝の血縁だけに頼ったやり方でも、キューバのカストロ兄弟式とも違います。中国の特色は二本レール方式とでもいうべきで、"重役会議"が指定した者があとを継ぐのですが、それはただ血縁によってだけというものではなく、非制度的な隠れたルールがもうひとつあって、それは太子党(紅二代目)は様々な役所で特別待遇を受けつつ成績をあげてくるというものです。この血縁プラス党内の出世手順を踏むというやり方は鄧小平と陳雲の二人の元老がしっかり決めたやり方です。そして党内の"御重役"の子弟達には明らかに有利な点があるのですが、そこには同時に不確定性もまたあるのでした。
まず制度が彼らにとって大変結構な点から言えば、鄧小平時代の集団指導性で高い地位にあった者たちの子弟たちはみな"平等に"中南海の玉座を目指すマラソンに参加できるということです。文革の時期はそうではありません、ただ毛沢東の娘の李納と姪の子供の毛遠新だけが堂々かつやすやすと軍の高い地位をゲットできました。例えば毛遠新は27歳で中共政権始まって以来の最年少の省クラスの幹部になり、その他の「開国元老」たちの子弟はただ軍に入ったり、仕事についたり、農村で鍛えられたりみたいなことで、一番運が良くてせいぜい大学に入れて労働者、農民、兵士とともに学生になれる程度でした。これに比べてみれば元老たちも確かに鄧小平と陳雲は"公平"にやったと思ったのです。
一方、「不確定性」のほうは、紅二代たちは必ず基礎的な行政組織に行ってキャリアを積んで一歩一歩階段を上がってこなければならなかった点です。しかしどの階段にも自分ではどうにもならない不確定な要素がありました。紅二代も基礎的行政機構の役人たちと付き合わなければならないわけで、それは少なくとも「高貴な身分を下げ」てその村長だの町長だのといったクラスを味方につけなければなりませんでした。現在、メディア上を賑わせている習近平がかつて陝西省の人民公社の田舎の生産隊に入り、河北の正定で村長をやった素朴さ、村人と仲がよかったとかいう類の話はみなデタラメな話というわけではなく、確かにそのころの習の真面目さの表れだったのです。そうすることによってのみ基盤となる人民層の推薦という関門を通過することができたのです。私が1970年代に鉄道修理の現場でみた経験では大学生だろうが工場勤務であろうが、上級がある幹部の子弟を推薦せよと命令したところで、「大衆の推薦」という関門はある種の人々には通過しようがないもので、その場合は別の方途を考えざるをえなかったのでした。
★劉源、薄熙来、習近平の"政権玉座マラソン"ランナーとしての資質
そうした不確定性のある"高貴な身分"をもちながら土臭い田舎の役人たちと腰を折るようにするなどということを嫌って少なからぬ紅二代目は中央の機関で働くことを選びました。鄧小平一家の娘たちも軍隊や中央の省庁での仕事を選びました。当時、村レベルの下までいって"鍛えてきた"王子様たちといえば劉源、薄熙来、習近平の三人だったのです。
劉源は劉少奇の子としてトコトンやりはじめたらやりました。北京師範大学卒業後、1982年に河南省新郷県七里営校舎の副主任という職からスタートして6年間の短い間に新郷県副県長、県長、鄭州市副市長、1988年には河南省副省長となり全国で最年少の副省長でした。ほとんど毎年一級ずつ上がっていったのでした。しかし洋々たる前途が開けていたにもかかわらず、公開されていない理由で1992年、劉は突然、歩む道を変え武装警察隊の水力発電指揮部の第二政治委員兼副主任になってしまい、ここで軍隊の世界に入り、同年、桂武警少将という武装警察の階級になりました。この軌道修正はその後の彼にとっては終身の悔いを残すこととなりました。
薄熙来は1982年、中国社会科学研究院を卒業後、相前後してまず中央書記局研究室と中央事務局で二年過ごした後、1984年に遼寧省金県の県委員会書記となり、このあと2004年までの20年間、大連をベースに懸命にがんばって遼寧省委員会の副書記から省長になりました。伝聞では彼と遼寧省の書記だった聞世震とはウマがあわず、遼寧省から直接中央へ上がる道を閉ざされてしまい、やむをえず2004年に商務部部長になりました。薄熙来の性格が強引で当時の国務院副総理の呉儀は薄を嫌っていたといわれます。これが二度目の蹉跌となって2007年に重慶市委員会の書記になり、中央政治局委員になったときにすでに、腰が低く目立たないように処世をして順調に出世街道を歩んでいた習近平に二段階の差をつけられてしまっていました。
習近平は1975年に清華大学に入学する前にすでに陝西省延川県文安梁公社家河大隊で党支部書記を務めていました。1982年中央事務局にはいり、中央軍事委員事務局秘書から河北省正定県委書記となりました。1985年後の職歴は主に福建省でした。2003年に浙江省委書記を、2007年にまず上海市書記兼上海警備区第一書記、同年、中央政治局常務委員となり、中央書記局書記に転じ、中央党学校校長となり、王位を望める立場がしっかりと射程距離に入ってきました。
というわけで状況をみると、劉源の出世は順調にはじまったのですがその後パッとしませんでした。習近平、薄熙来は下部の役所にいたときに人柄の違いで、その評判も大いに差がありました。薄熙来は大連市の市長になってから国内メディアが持ち上げる「政治的御曹司」になりましたが、同時に香港メディアのスキャンダル報道の主役になってしまいました。香港の文匯報の大連駐在支局長だった姜維平が匿名で香港メディアにそのスキャンダルを暴いて牢屋にほうりこまれました。
一方、習近平はメディアに登場することは極めてすくなく、堅実にことを運び面倒ごとの少なくはなかった福建省にあってもなんとうまくやりとげたのでした。その評判も薄熙来と比べると大きな差がありました。2007年になって薄熙来が重慶の書記にやっとなれたときに、習近平は上海の書記になりました。この二人の「太子党」の政治的スターの前途の優劣はここですでにはっきりしていました。職階からみて習近平が第五代目の指導者の中心として「培養」されていたのに対して、薄熙来の政治局委員と重慶市委書記というのは「残念賞」でしかなかったのです。
その他の名家の子弟たちの状況はいろいろでした。陳雲の子、陳元は北京を地盤として、1984年に北京市商業貿易部部長兼市体制改革委常務副主任となっておりその職階は習近平や薄熙来、劉源より上でした。陳雲は彼を北京市委員副書記にさせたかったのでしたが、なんと1987年12月13日の北京第六節党代表大会における北京市委員選挙で落選し出世が頓挫し、以後止むを得ず方針を変更して金融畑を歩むことになります。2005年6月、陳雲生誕100年に陳元はCCTVの白岩松のインタビューに対して、父親が文革の時期に江西省に放逐されていた時期に息子に対して、時の米国の連邦準備委員会主席ポール・ボルカーこそが事実上の本当の米国のトップで経済の大統領なのだ、と言ったという思い出を語っています。2007年後は、薄熙来、劉源、陳元、軍の紅二代目の張海陽などが帝位獲得競争に打ち勝つ計画をたてるために結盟しました。そして薄熙来だけがさらに高い職階を望める位置につけていたため、紅二代目たちが彼を応援する対象としたのです。
★習近平が薄熙来事件を処理する時の「内外区別」
10会大会後、習近平が中共のかなめとなり権力を一身に集めました。しかし、権力闘争のライバルを処分するにあたってはやはり「内外を区別する原則」を守っています。平民出身の薄熙来を応援していた周永康や薄熙来入獄後に周永康とつながりを深めた令計劃らにはいささかの容赦もしませんでした。しかし、かつて薄熙来と結盟の関係にあった紅二代目に対しては勢力をそぎ落としただけで、ゆっくりと"安置"する方向をとりました。
薄熙来に千億元を超える経費を提供していた国家開発銀行の元頭取の陳元に対しては習近平は退職させて全国政治今日小委員会の副主席とし、彼が長年努力してきたBRICS5カ国(ブラジル、ロシア、インド、チャイナに南ア)開発銀行5カ国のトップになるのを許しました。しかし、2014年、銀行が正式に発足したとき本部は上海におかれましたが、トップはインド人で、陳元はトップの座どころか理事会の議長にもならせてもらえませんでした。また元中央軍事委副主席の張震の子で第二砲兵部隊政治委員だった上将・張海和も18会党大会以後は出世が止まり、腐敗の噂の中で2014年、退職しました。
劉源の十八会大会後の経歴や態度、状況は陳元や張に比べるとはるかに複雑でした。薄熙来事件の前に、劉源は情勢が不利とみて肝心なときに"選択"をしました。「薄熙来が中央の命令通りに王立軍を処理したと主張」(NYタイムズ2013年8月31日)によると、記者の描くには「王立軍が北京におくられて、令計劃が中央事務局の秘密命令で首都の軍事系の病院で精神病の検査を行ったけっか、そこでは王立軍は発作的な精神病をわずらっていたことがわかった。もしこのニュースが伝わっていたなら王立軍が(*薄熙来夫人の英国人殺害について)語っていたことやその他の彼の訴えた問題にも疑問符がつきます。この検査結果を知りたいと薄熙来は北京のこの病院の上部機関である軍の盟友である劉源に検査結果を漏らしてくれるように頼んだのですが、劉は拒絶しました。内部情報によるともし劉源がこの秘密を薄熙来に渡していたら王立軍の証言はひっくりかえり、薄熙来は倒されなかったかもしれないともいわれています。
習近平が総書記に選ばれた最初の頃、劉源は不満の気持ちを抑制できなかったようです。2012年11月16日の午後、胡錦濤と新任の中共総書記、軍事委員会主席の習近平が北京で開かれた中央軍拡大会議の映像がネット上にアップされたのですが、その映像には胡錦濤が習近平を褒め上げて彼は立派にやるだろうというようなことを話しており、列席者はほとんどすべての人、習近平もふくめてメモやノートをとっていたのですが、劉源は椅子に両手をかけており、机の上には一枚の紙も筆記具もみあたりませんでした。
しかし、劉源は再び態度を"調整"し、2013年には習近平の粛軍に協力し、軍の中で強力に反腐敗キャンペーンを推進しました。以後、海外の多くのメディアはずっと劉源が軍事委員会に入るだろうという観測を伝え続けてきましたが、「声はすれども姿は見えず」でした。2015年10月、習近平は軍事改革をおこないその内容のひとつは組織再建した軍事規律委員会、軍事政法委員会、軍事審査会計部門などの機構でした。12月6日、海外のサイトで「特ダネ;習近平の緊密な友人・劉源が軍事規律委員会書記に就任することが決まった」というのが流れ、多くの人々が本気に受け取りました。そうした人々は今年10月の「張木生の厳正なる声明」(http://ift.tt/1TiajcN)が発表された本当の背景について注意を払っていなかったのです。
張木生(*中国税務雑誌社社長。父が元周恩来の秘書)はカンカンに怒って数年前に言った「時限爆弾を抱えて羅漢さんゲームをやっているようなもの」というのは習近平に対して当てこすったのではないのに「異議人士が飽きもせずわたしのあのはなしを蒸し返して、意図になかったことに使っているが、その矛先はわたしではなく劉源にむけて使われている。何回も言ったのだがわたしは劉源の"知恵袋"などではないし、劉源の知恵と知識はともにわたしよりすぐれている。劉源はわたしに『良い話は口にださないほうがいい、利用されるだけだ』と言っていた。わたしにたいする話は誤解誤説誤読、わたしは間違いを認め、糺し、改めるし、純粋に個人的な観点であって劉源とは一銭の関係もない!」と書いています。この声明はどうやら劉源側の中央軍事委員への最後の突撃努力だったようですが、習帝の御心を動かすには至らず、ついに劉源は今回の光栄なる退職となったのでしょう。
紅二代目の大多数は40年代後期から50年代の生まれで、そろそろ引退です。この80年代の政治マラソンが最後の100メートルのラストスパート段階にまだ入らないうちは誰もがその巨大な優勝盾を手にするかはわかりませんでした。陳雲が「自分たちの子供らを後継にする」というルールをきめたとき、中共内部の政争の教訓からこの争いは必然的に食うか食われるかの危険なゲームになるということは予想されており、ですから江青裁判において党内闘争では死刑にしない、という潜在的ルールがさだめられたのです。彼のこのルールはまさに「瓜の種を植えたら瓜がなる」ように`十八会大会の権力闘争に参加した多くの紅二代目本人やその一家の命運を救いました。盛大なパーティのご馳走の席には座れなくても、「両会」(*人民代表大会=形式だけの議会みたいなものだから)の貴賓席は依然として彼らのためにとっておかれるのですから。(終わり)
拙訳御免。
原文は;何清涟:刘源退休:红二代政治长跑终"封印" http://ift.tt/1UQi2zO


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